オオニシ恭子の薬膳日記

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薬膳日々

1. 私の生きてきた時代背景
私は1941年に生まれました。その年はまさしく世界第二次戦争が始まった年でした。私は日本で生まれ日本で育ったのですが、それから70年たったわけです。この70年の私が生きて来た事は世界の動向に影響されてきたのは当然のことですが、それがどういう時代だったかを1941年来世界で何が起きたのかリストアップしてみたいと思います  
  1941年 世界第二次戦争勃発
  1946年 広島長崎に原爆投下、日本敗戦宣言———私4歳
  1950−55年  朝鮮戦争を背景に好景気、生活ネネルギーは石炭から石油に移行——————私10歳
  1960 以後  日本,経済成長でGNP世界代2位       −−−−−−−−−−−19歳  英文学勉強中
1967−75      26歳インテリアデザイン学校からデザイナーとして活動し始める,
新しい生活様式の探求
  1973  第4次中東戦争が起き石油高騰『オイル ショック』       32歳
    日本経済は安定
1981  ベルギ−に移住
1986年 チェルノブイリ原発事故
1986−1993〜4       狂牛病
1990 以降〜   ダイオキシン問題、家畜へのホルモン剤禍、遺伝子組み換え、種々の食品公害
           化学薬品禍、新型インフルエンザ、エイズ問題、放射線禍
1991  日本経済バブル崩壊
2011   東日本大震災
 私が4歳の時、広島、長崎に原爆が投下され、日本は敗戦国として焼け野原から新たな生活を立て直すのに日夜苦闘して来たと思いますが私は幼かったので親が食の獲得に一生懸命だった様子や、同じ物を食べる日が続くとか断片的な情景を思い出すものの、親に保護されて痛みもなく育ちました。
その後、日本の経済が良くなり比較的恵まれて育ち年頃にもなると、欧米の文化の影響は大きかったと思います。その頃はテレビの普及でアポロ11号の月面着陸を見て、科学技術の未来の可能性は大きく人々に夢を与えていた時代です。デザインの世界は新たな技術と共に大きな可能性を秘めて機能性と有機的な心的な形を表すという事に熱中していました。西洋化されたデザインは迅速な消費と効率性を刺激しました。そして成功するということが人生の基本的な要素のひとつに思えていました.私はモダンな家具デザインとシンセチックな素材をつかって日本の生活様式を変えようと試みていました。
しかし、結婚して家事をするようになってから、両手の先が荒れ、痒くて、腫れていましたがその理由が分かりませんでした。いろいろの病院へ行ったのですが、医者はその原因も分からず、治す事も出来ない、コーチゾンの薬をくれるばかりでした。
オイルショッはクが起きるとアクリル板のようなシンセチックな素材は高騰し、モダンな家具の生産は難しくなりました。
やがて、やむなく考えを変えなければならなくなりました。なぜならば、気分を簡単に変えてくれる家具を造る事があたかも高価な粗大ゴミを造り出しているように見えて来たからです。私は物を無駄に浪費しない生活を考え始めていました。
ある日、偶然にも桜沢如一先生の本を得ました。桜沢先生が提示する考え方、生活法はかなり興味深いものがありました。「食は全人生の基本」だと言う。病気も不幸になることも自然や食への無知が引き起こしたものだといっています。
私はその特別な考えに魅了されキッチンの材料を変える事にしました。
私の手は、砂糖と動物性抜きで玄米とオーガニックの野菜を噛むことで短時間で治ったのです。何処の医者も治せなかった私の問題を解決したという事は大変驚くべき出来事でした。結局新しいインテリアを生みだすよりも、食物について集中的に學ぶようになっていました。
1981年 に7年間桜沢リマ先生から料理,大森英桜先生から食医学を學び、桜沢先生の命をうけ、欧州に移住し、マクロビオテイック食事法を教える食育活動をベルギーから始め次第にオランダ、フランス、と足をのばし、欧州の国々でどのように料理するのか教えて来ました。
1986年にチェルノブイリの原子炉が事故を起こしました。その時、私は,自分が実践していて人にも勧めている食事法に対して、病んでいる人を治療したという経験とある真実の物語によって確信を得ていましたしので、あちらこちらで、爆心地からそんなに遠くない所にいたいにもかかわらず長崎の原爆投下後、何の症状もでなかった秋月博士の事を話して回りました。彼は放射能から身を守るのは、日頃摂っていた玄米,ワカメの味噌汁、梅干しをとる事だと確信し、人々にもそれを伝え、その食事法で70人の彼の患者達は生き延びたのです。
彼はそれを本にもし、食事法の威力に関して、言い回りました。博士は長生きし、最近迄生存していました。
私は玄米と味噌スープが放射能禍を防ぐのに良いと確信しています。最近,学者によって、味噌からの酵素、玄米からアルビノキシラン、海藻からのカルシュームとヨウ素が放射線から体を守るのに効果的だということが言われています。
放射能の害は3点言われています.ストロンチュームはカルシュームによく似た性質をもち、体にカルシュームが足りないとカルシュームに代わって体に入り込み、骨を犯す。セシウムはカリウムに似ていてカリウムの代わりに入り込み膀胱や筋肉を痛める。ヨードは甲状腺を痛め甲状腺がんを起こすと言われています。ですから、昆布などの海藻はその3つのカルシューム、カリウム、ヨードを持っているので日頃コンスタントに絶やす事なく摂っているのが良いと思われます。
今は放射能の事で世界中が神経質になっていますが、1956年頃から様々の食品汚染が明らかになり私たち食の安全性が問われるようになってきました。狂牛病は1993年から4年にピークに達しました。1990年にはダイオキシン問題が起きました。家畜に使われるホルモン剤rBGHは膀胱ガンや乳癌を引き起こすと言われていますがそれでも肉を太らせるため使われています。遺伝子組み換え,クローン肉もいろいろ詮議されながらも解禁になっています。
化学薬品や農薬,工場排水などによる環境汚染、新型インフルエンザや新型のビールス、エイズの増加、携帯電話、テレビ、コンピュウーター、飛行機の利用、X線、CDスキャンなど生活のなかの放射線照射に加え1945年以来今日まで2053回の核実験が世界で行われている事を考えれば、私達はもう大変な所で暮らしているという事になります。
これは今に始まった事ではなく古代ローマにおいてもワインの中にアロエとか何か化学物質などが混入され製造されていた事があったらしいですし、パンもなにか白い粉を混ぜられたという事もあったようです。
イギリスでは1819年に“Thereis a poison in the pan”という本がFrederic Arcumuによって書かれています。1850年には2400種の食品に重金属の銅、水銀、鉛、ヒ素などが混入されていたのが分かっています。1860年には食品と薬品にたいして毒物規制法案ができました。
さて、一年前の3月11日、日本で大地震が起き東北地方の太平洋沿岸は津波にさらされました。そして、福島の原子炉はみなさんがご存知のようにメルトダウンをおこし、放射能を放出 するという大惨事を引き起こしました。そして、私たちはその福島後にこの時代の大変な事態に直面して居る事を知らざるを得なくなりました。
2011年の3月11日は決して忘れる事の出来ない日となりましたが、その日、私はベルギーから東京に着いて、一息ついて、2時間後、繁華街にショッピングに出かけようとしていた時にただ事でない地震を経験しました。家がつぶれると思いました。それはかって経験した事のないマグネチュード9、東京の揺れは震度5というものでした。次第に巨大な津波があったこと、福島原子炉が爆発したという大変深刻な事態に直面してしまった事を知りました。最初は地震と津波におののいたのですが、すぐに福島原子炉の水素爆発で放射性物質が大気や海に漂うということを想像し、終わりのない不安が続き、情報への疑惑と見えない放射能への恐れのなかに落ち込んでしまいました。その時以来、やっと私たちはどんな時代に生きてきたのか、無知のために大変危険な社会に住んできた事を知りました。私達は健康的な生活を一時の快適さと便利性と引き換えたのです。私は食を変えて以来、食の大切さを人々にも伝え、いかに健康を保つか、どうやって食で病気を癒すかを教えてきました。
2.私は何をすべきでしょうか
福島の事故以後、私は何をすべきか、何が出来るのか、私の役目は何かを考えてきました。
そして、私は私が信じる体を守る食を最も必要とする場所に行く決心をしました。それが福島だったのです。
去年の9月10月は食で放射能からの健康弊害を守ることを教え、力づけるため福島へ行きました。
私は毎日、幼稚園、保育園、小学校を、講座や料理講習をしてまわりました。また、公民館や図書館なども回りました。
放射能から身を守る最短距離は適切な食を摂る事であり、それは放射能ばかりでなく、新型インフルエンザであれ、ガンであれ、その他もろもろの健康被害から立ち直ることに通用いたします。私は,福島でも秋月博士のことを話しました。
福島の人々は大変真剣に、静に私の話を聞き。大変丁寧で、礼儀正しく見えました。しかし、ある日、ある若い女性が情報の混乱と将来の不安について話しました。かの女は農業を営み、米を作っていました。がその米は放射能を被っていました。彼女は自分自身で作った米を彼女の子供達に食べさせられないことに困惑しどうして良いか分からないと泣き崩れました。
次第に私は皆さんをより理解する事になり、たくさんの悲しい物語を聞いたのです。それらの話と壊れた風景はここで何が起ったのかを物語るには十分すぎるものでした。
福島では、私は毎日焼き昆布入りの玄米おにぎりを私の講座に来る人々に配るため50〜100個作り続けました。
私は放射能から身を守る昆布と玄米の組み合わせの味を知ってもらいたかったのです。日本では余り玄米を食べずに白米を食べるのが普通です。人々は慣れない玄米を食し、美味しいといってよろこんでくれました。
福島の後、私は津波被害の大きかった北の街石巻市へと移動しました。そこで人々は全てを失っていました。愛する人、家、お金、仕事、思いでの品々などほとんど全てです.私は市の中央から離れた仮設住宅を訪れました。そこには1000戸の家が立ち並んでいました。余り心地よくない状態で,不便な場所ですから食物を一人で買いにいけない、住居の状態が寒い、なじめないなどでストレスの多い状態が人々を悩ましていました。そこでは、放射能から身を守るという事よりも、災害非常時に役立つマホービンとお湯があれば暖かいご飯も非常にいただける、体を温める方法、怪我や冷え頭痛などの対処の仕方として、日頃何処にでもあるような、生姜や番茶、野菜を使ってのケアーについて実際に手早く作り、試してもらったりしました。
人々は非常に疲れていたようで力なく見えましたが,次第にリラックスしてきて、オープンになり、お互い会話をかわし、話し合うようになってきました。
石巻の後、気仙沼と呼ばれる市に行きました。気仙沼は日本で一番、世界でも第3番目の大きな漁港ですが、20メートルの津波によって壊滅状態でした。私が行った時はすでに6カ月たっていたのですが、海岸線は瓦礫の山で、船がまだビルの上に載ったまま、橋は壊れたまま鉄骨のみが無惨に曲がったまま残っているような状態でした。
そこでは私はボランティアーで赤ちゃんのための物資を与えていた一人の男性に会いました。その人は、津波の直後、ミルクやおむつなど買う事もままならない状態でいた多くの家庭のために赤ちゃんの必要物資を買い集めそして配達しはじめ人々の信頼をうけていたのです。私が行った時は、彼の支援活動は、赤ちゃんを抱えたお母さん救済のさらに現実的な問題としてお母さん達の明日の生活費の問題がありました。全てを失った人々はすぐにも明日のための仕事を求めているという現実に、仕事さえもなく、特に子供を抱えた母親達は働かねばならないのに仕事の可能性はありませんでした。私は野菜のジャムを作って母親達の仕事を作る事を提案しました。
私を何かと助けてくれた人とその彼はその案に同意し、赤ちゃんのいるお母さん支援の野菜のジャム作りを始めることになりました。たちまちのうちにそのプロジェクトはスタートしました。私の考案した野菜のジャムは『PEACEJAM] という名として売り出すことにし、その作り方をお母さんたちに教えました。
まだ作る場所もないので、公民館の料理講習所を借りて、赤ちゃんをケアーしながらの制作でした。そして、すぐに、東京で売り出され、評判はよく、TVが紹介し、良いビジネスのスタートを切ったようにみえます。現在彼らは赤ちゃんとお母さんのための保育園付きのジャム工場を設立する申請をしています。これは、今回の東北への旅行のよい結果のひとつです。
最近私は、福島で私が進めた食事法に変えようとしている人たちが結構いるということを聞きました。そして私のレッスンに出席した女性からのe-mail を受け取りました.彼女は私が福島で話した事をヴォイスレコーダーに入れていて、何度も繰り返し聞き家族にも聞かせているという事です。出来る限り食に注意を払う努力をし、体調も良好で、未来への希望を持つ事ができるこの頃だと言ってきました。
私の今回の福島、東北への旅はよい結果となりました。
私が行くことを決心したとき、他の人を困らせないか、効果のない自己満足にならないか、金銭的に不十分じゃないか、そして、自分で運転して、事故を起こしはしないか、など心配いたしました。私は全て自力で他の人に迷惑かけずにレンタカーで自分の運転で行くつもりでしたし、アシスタントも特別頼みませんでした。
しかし、出かける3日前に、ある若い男性が車を提供し運転する事も申し出てくれました。ある海藻の会社が15キロの上等の昆布を寄付してくれたり、野菜や、ヌードル、金銭迄も寄付してくださる方達がいました。
そして、ロッテルダムの教室のグループはたくさんのことで私を支えてくれました。現地では毎日入れ替わりたちかわり遠方からアシスタントとして助けに来てくれる人たちがいました。ロッテルダムの生徒さんのご両親は私にお家を提供してくれ、そこで宿泊させていただき、キッチンでは毎日おにぎりを作ったりするのに使わせていただきました。
わたしは皆さんを助けたいと思ったのですが逆に人々から助けられました。
3.どのように我々は生きのびれるでしょうか。
今、わたしたちは世界的な問題に直面しています。私たちはチェルノブイリ原発事故でそれを既に學ぶべきでした。そして、原子力に頼ることを止めるべきでした。国土、水、歴史、生産物は失われ、恐怖、怒り、悲しみ、死、病気が、、、全てのネガテイブな力が生活にひろがっています。福島の悲劇が私たちへの最後の警告です。
福島の悲劇を二度とお越したくないと、オランダにおける友達と人間生活のために自然保護と自然への認識のための憲法立憲の運動をする決心をしました。今、私は皆さんにこの運動の署名にインターネットを通じご協力してくださるようお願いいたします。http://www.thepetitionsite.com/11/stop-pollution/
結びに、私は心より、終わりのない危険の代わりに平和的な国土で自然と共に調和をとって生きれるという事を望みます。加えて、私は、気仙沼の牡蠣の養殖場をやっている漁師が気仙沼港は大変豊かな海水をもっていると言ったのを聞きました。気仙沼は津波がくる迄は最も栄えた漁港でした。なぜ、その海水が豊かと言いますと、ミネラルをたくさん含んだ山や林からの川の水が港に流れ込むからです。彼は山や林は海の恋人だといい、彼は漁師ですが、山や林のほうも同時にケアーしてきたということでした。そして、中国とロシアの間を流れる川の流れが気仙沼に流れてくるのだそうです。中国からの“黄砂”といわれる季節風が日本にもくるのですが、それが気仙沼に鉄分を運んでくるので気仙沼は豊かな海になっているのだそうです。私はこれを聞いた時私たちの世界は本当におたがい繋がっていると再認識しました。良いことも悪しき事も世界を回ります。そしてそれらは幸福や不幸を作りだします。
このように、福島の悲劇は福島のみならず、世界の悲劇です。どうかこのシュミレーション「A Time Laps Map of Everu Nuclear Explosion Since 1945 by Isao Hashimoto」を見てください。
かつて、日本はこの春、全部の原子炉を停止してみるというニュースがありました.これは原子炉が必要かそれともなしでやっていけるのかという大きな試練になることでしょう。しかし,多くの人が原始炉を閉じようと望んでいるにも関わらず、まだ再稼働させようと言う人たちもいて,日本は今後どうなるか揺れています。
私は強く、この署名運動が日本や世界をより健康的に変え、よりよい未来を作っていくことを願います。     ご清聴ありがとうございました

アムステルダム Mediamaticにて 21012年 3月11日 17.40
by kyoko-yakuzen | 2012-03-11 06:59