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オオニシ恭子の薬膳日記

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薬膳日々

散乱したキッチンのまま東京に行って,帰ってみるとキッチンはきれいに片付いていた,フランスのマリーとオリビエがきれいにして帰ってくれた。彼らの私を思う優しさがそこにあった。
にもかかわらず,私はなにもしたくないし何も食べたくないし,気をとりなおして、ビオショップに行くけれど,何を食べたいのか分からない。多少買った物を口にするけれど,やはりおいしくない。
東京でも、そうだった。無理に,やけになった感じで一人でレストランにも入ったが美味しくなくてしまいには、なんでこんな見せかけの安物ばかり売っているのか,『だましだ」と思った。自然食品店で買った物のほうがまだ良かったが,それでも美味しいとは思わなかった。
今、自分の精神的な状態からくるのだろうけれど,こんなとき体が癒される物を食べたいと思うけれど自分で作る元気がない。そんなときに批判的なのが良いかどうかわからないけれど、少なくとも日本や欧州にあふれているたべもの、少なくとも都会で手に入る食べ物の見せかけのおいしさ,きれいさにはうんざりした。これは人を滅ぼし国をほろぼすものだ。こういう物を食べていても元気な人がおおいではないかといつも思うけれど,命の賞味期限を食べているような物で年齢がくれば、お決まりの病気になっているのをみるばかり、医療はそれをモグラたたきのように,減らそうと研究して時々,或る物質発見の貢献をしている。けれど,生きる本質に迫った物はない。

個人の夢や生きる喜びは年齢に関係ないから長生きしても、自分が年寄りだからと,口に出しても心から思っていない。しかし,東京などに行くと年寄りが多いな、繁華街を真夏のつばの広い帽子や日傘、顔には日焼け止めクリームをしっかりぬって、スニーカー、リックサック、という出で立ちで多少腰が曲がっていても,歩くのがおそくても一生懸命歩いている。何処へいくのか、ショッピングか病院が多いのではないだろうか。曽野綾子さんの「老いの才覚」には老いの処世術の指導がかいてある。私は殆どが賛成できたし,最後の『神の視点」について感銘をうけている。

私は神様への浮気遍歴をどの神様に告白したらよいのだろう。主人の「自分でかんがえろ」という声が聞こえる。
学生時代、プロテスタントの礼拝をしていて洗礼を受けようとしたが、なぜか洗礼直前にやめた。しっくりこなかったからだ、その後,無神で、しいていえば、芸術の神ミューズの近くいたかもしれないが,インド仏教や密教に関心があってよく本を読んでいた。ベルギーに渡ってから何処の町にいっても、キリストのはりつけ像を見て,キリストについて関心を持った。焼き討ちにあったマーテイン スコセージー監督の「Last temptation]の映画をゲントで見たとき2−3人しか入っていないのが異様だったが、私はひどく感動し,原書を読み始めて、教会に入ると信者ではないが、ろうそくをあげる気になったし,教会の果たした役割に新たに目を開く部分もあった。しかし。ご縁のあった
日本の最古のお寺の管長さんはとても人間的で,心もきれい、お話はいつも仏教の事ばかり、そして
どうやって世界に仏教のこころを伝えるか腐心していた。何となく得度を受ける事になった。
得度式のまえに髪の毛をそらなくてよいというのと、何か日々の制約はありますかと,聞くと「何もない,今やっている事が仏教そのものだ」とおっしゃったのでその気になった。しかし式のとき。『姦淫しない,ぬすまない」などのしてはならない項目を「しません」と2度答えなくてはならない。しかし「嘘をつかないか」というところでなぜか詰まって嘘も方便とか,相手に嘘を言った方がよい場合もあるとか想念してこたえられず、「あの〜」といってしまったら、「言いませんとこたえておけばいいんや」といわれた。それで気が楽になったが,なぜかおかしくておかしくて仕方がなかった。
東京の杉並にはお寺が多く人生の終わりのご縁もかんじたが、阿佐ヶ谷に気持ちのせいせいする神社を発見し、伊勢神宮に主人と行ったとき、主人がとても気にいってつぶさに見ていたのを思い出した。
そして,福島の久之浜にN氏の案内で行った時、海岸にあっただろう家々が敷石のコンクリートを残し壊滅状態だった中に痛々しくも神社が残ってたっていた光景はわすれらない。

神社に何度かかよった。2012年9月13日
by kyoko-yakuzen | 2012-09-13 10:46